医学生(2年)桜井のブログ

浪人経験や思ったことを書いていきます。気に入ってくれたなら気軽にツイートしてください。インスタ→sa_kura7630

秋山に無くて葛城にあるもの

今回は秋山に無くて葛城リョウにあるものについて考えたいと思います。
f:id:lyricalsakurai:20220220162630j:image

作中では秋山に無くて葛城にあるものが何かをはっきりと明かされませんでしたが、私はそれを「学問的裏付け無しに相手の心を感じ取ってそれに基づいて行動出来る心」だと感じました。

最終回での回想での秋山と葛城の大学時代に行ったプロファイリングにおいて、当時の心理学教授が誰のプロファイリングが正しいのかを発表することになっており、秋山ではなく葛城のプロファイリングが正しいとされました。

プロファイリングとは、ある人物の行動や性質など、人物像を分析・推測することを意味します。

秋山は教授から渡された手紙の内容を基に差出人の人物像を推測したのに対し、葛城はその手紙には自己紹介がないことと手紙にある滲みに注目し、教授の妻に「当時引きこもりがちだった教授の娘が少年が書いた手紙を拾い、それによって勇気と力を与えられ、返事を書いたが、返ってきた手紙の差出人はその少年の母親であり、少年は既に亡くなっていて、事実を知った娘が涙を流してその手紙に涙がついて手紙が滲んだ」という事を聞きました。

「葛城のやったことはプロファイリングではない」と秋山は主張しました。確かに、葛城のやったことはプロファイリングではないと私も思います。しかし、当時の秋山は学問的なものを重視するあまり、人の気持ちを考えるということを忘れてしまっていることを教授は感じていたのだと思います。よって、学問とは関係なく人の気持ちを考えることを思い出して欲しいと感じて敢えて秋山ではなく葛城の勝ちだと判断したのだと思います。

教授の妻に事実を聞いて人物像を判断するというのは、データに基づいて判断するというのに反していますが、葛城はその行動が原因で秋山との勝負に負けるとしても手紙の差出人の気持ちに気づいてあげたいと思ってその行動を取りました。葛城なら自分の行動を伏せておくということも出来たはずです。それに、常に秋山に勝てずに2番目に甘んじていたこともずっと悔しく思っていたはずです。それでもプロファイリングというものに反したことを行ったことを告白したのは秋山に勝つことよりも差出人の本当の気持ちに気づくことを優先したからです。そのためにはプロファイリングかプロファイリングではないのかは問題ではありません。

以上のことから、秋山に無くて葛城にあるものを「学問的裏付け無しに相手の心を感じ取ってそれに基づいて行動出来る心」だと判断しました。