医学生(2年)桜井のブログ

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悲鳴嶼行冥の言葉

今回は岩柱である悲鳴嶼行冥の言葉について考えます。さくらんぼの発表と同じ感覚なので、間違ってる所や不備はあるかもしれません。

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 この画像は15巻ですが、表紙が悲鳴嶼行冥だったので選んだだけです。扱う言葉は無惨を倒した後に言った「私は手遅れだ貴重な薬を溝に捨てることになる」です。その時、行冥は無惨との戦いで致命傷を負っていて当時の技術ではもう助からない状態でした。

明治~大正|250余年のあゆみ|エスエス製薬 (ssp.co.jp)

これによると、鬼滅の刃の少し前の明治時代、1889年の薬律によって、全国的に薬種商や薬局が整備されたことによって販売網を地方に広がったそうです。当時は一部の豊かな人とそうでない多くの国民の間に社会格差がありました。多くの人が少しでも安いものを求める中、業界の過当競争が激化し、粗悪品の安値乱売が起こったりしていました。そんな中で本当に良い薬は貴重であったと考えられます。

現在のエスエス製薬の前身である瓢箪屋薬房は上記の中で業績不振になりました。1897年に乱売矯正会を結成し、適正価格での販売を促進するも、4代目白井正助が南槙町に新築した家屋を5代目の時に売却しないといけないことになったそうです。業界にはそのようなパターンが多くあったように私には思われます。しかし、家業を続けることは出来ました。

6代目白井正助の時の大正時代には、製造の本拠地を東京市荏原に移し、和漢薬に加え化学合成薬の開発・製造を行ったそうです。また、全国的販売網が整備され、大きな成果をあげ始めたそうです。しかし、第一次世界大戦終結後の不況、関東大震災による製造不能状態に陥ったりして順風満帆にはいきませんでした。

医薬品卸 史料館 明治・大正時代|エンサイス株式会社 (encise.co.jp)

また、1914年に医薬品の輸入が途絶えたり、輸出が禁止になったりしたり、1918年に米騒動が起こったりしたことも薬の研究などが遅れた原因になったような気がします。もしも、このような事が起こらなかった場合は薬の研究はもっと進んでいたような気がします。

本当に私の個人的な考えですが、無惨との戦いの後、今のような医療技術があれば、悲鳴嶼行冥・伊黒小芭内・甘露寺蜜璃は死なずに済んだのではないかという希望を持っています。現代に転生して幸せに暮らしているという感動もありますが。薬の製造も現在みたいな感じで多く作ることも出来ないことは間違いないです。そうなると、トリアージも今以上に重要であったと考えられます。トリアージに関してはかつて私が書いた救急医療なども見てくれると嬉しいです。

私が医者になった後、重症患者が多く来ることになるかもしれません。その際に「私は手遅れだ貴重な薬を溝に捨てることになる」みたいな事になるのは物凄く残念な事だと思います。後数年医療が進んでいたら助かっていたとなれば尚更です。実際に薬ではなくても、ICUなどの施設だろうと同様です。

また、ある所では医療設備が整っていて、ある所では整っていないということは多々あると思います。ある所では十分にあるものでもある所では貴重なものであるということは考えられます。その格差も解消されて欲しいと願います。いえ、私も当事者として声をあげなければいけない立場になるでしょう。

このように、悲鳴嶼行冥の「私は手遅れだ貴重な薬を溝に捨てることになる」は私にとって重い言葉になるでしょう。